karstereoです。

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「チルから暴力へ」を手放しで楽しみたくはない。~ラベルによって見えなくなるもの~

広瀬すずさんがルイ・ヴィトンのアンバサダーになったという公式のInstagram更新に「coronovirus」というコメントが大量についているというツイートを見ました。

明らかなアジア人差別であり、その行為に僕らはちゃんと抗議するべきです。それが良いことかは置いといて、日本人やアジア人の差別に対してはいつも歪みあっている人たちも手を取り合って一緒に怒れるんじゃないだろうか。

 

 

現実は違っていました。

そこについているリプライには「フェミさん憧れの海外紳士のお言葉やぞ」「おい!人権派団体、出番やぞー!」という、何故か海外からの差別には見向きもせずに日本人を叩いたり揶揄する材料にしている人が複数いたわけです。

※全てではありませんが目につくほど多いのは確かです。

https://twitter.com/ltfc8qi4patliac/status/1225012817842982912?s=21

  

 

なんで?

少なくともフェミニストに敵対してる人は保守派の人が多いだろうからせめて日本人のことは守ろうとしようよとか、なんでそこでフェミニストを叩く発言が出てくるの?と意味がわからなすぎて呆気にとられてしまいました。

ふつふつと怒りも湧いてきましたが、一旦憤りは抑えて考えてみました。

 

 

で、気づいたんですけどその人権派を叩いてる人の中では、「日本のフェミニストは海外に媚びてるのに外国人に差別されてざまあwww」「いつも意識高いこと言ってるのにこんな時は怒らないんだな(実際は声を上げてる人も多数いるけど見ていない)」「女性の味方ばかりで男性の権利を無視している」「人種差別を訴える奴はだいたいフェミニストだろう」という「想像上のフェミニスト」への攻撃という意味では彼ら的に正統性のある(あるか?)ツイートをしているわけです。

実際は存在しない,もしくは存在するけど全体の一部であるイデアとしての「フェミさん」という存在を揶揄している。

で、差別されている日本人(アジア人)という問題は根本的に何も解決していないことには興味がない。

 

 

何でこんな風になってしまうんですかね。

でもこれって今の時代に毎日のように起こっていることです。

そしてこれは別角度からでも言える話です。

 

 

例えば私は上の文章で「フェミニストに敵対してる人は保守派の人が多いだろうから」と書きました。

実際そんなふうに自然と感じたんですよね。

だけど改めて考えたらそんなこと別に決まってはないわけです。

上で紹介したリプライ送ってる人たちのアカウント一つ一つ見たら確かに野党批判発言してる人が目立ちますが、野党は批判するが別に自民党支持でもなかったり、政治的な発言全くしていない人もいました。

自民党支持フェミニストだっているだろうし、野党支持で差別的な思想が残る人もいるでしょう。

しかし私はイメージで「ラベル」を貼った。

それが上でフェミニストを批判した人たちと考え方的に何か違うと言えるのか。

 

 

レコード会社はセールスを円滑にするためにそれぞれの音楽にジャンルを設定し、ジャンルごとにCDを並べることで効率性を生んでいます。

人に「ネトウヨ」「左翼」「フェミニスト」「ミソジニスト」とラベルを貼れば、わかりやすいでしょう。闘う相手,批判するべき相手が見えやすくなり効率的です。

しかし効率的になって起こるのは雑なカテゴライズによる大雑把な炎上・衝突・「暴力」です。

※もしかしたらそれを煽って金を稼ごうとしてる人もいるのかも。陰謀論とかじゃなくてPV数で稼ぐまとめサイトとか。

 

 

安倍政権支持者だけど「桜を見る会」に関しては酷すぎるだろって思っている人もいるし、フェミニストだけどグラビアアイドルの活動良いじゃんって思う人もいる。
そのグラデーションがあるのが人ですし、グレーの部分が増えることが相互理解への橋渡しになると感じています。

ですが「安倍政権支持者だから彼らを全肯定してるんだろう」「フェミニストだからグラビアアイドルには反対だろう」とラベルを貼ることでそのグレー部分は排除され、クロかシロの真っ向勝負になってしまいます。

雑な括り方だからこそ「私はそんなことを思っていないのに彼らは何も理解せず意見をぶつけてくる」という不理解による憎悪はさらに深くなる。

もしかしたらほぼ同じ思いを持つはずの側から「あの人には一貫性がない」と批判的な声も出てくるかもしれません。

 

 

少なくとも最近私はフェミニズム的な考え方を自分の中で意識する機会が増えました。だからといって海外に媚びてるつもりはないし女性にも当然ながら男性にも優しい社会であってほしいと感じてるわけです。

だからこそ冒頭のリプライに苛立ちを感じた。

 

 

 

少なくとも広瀬さんが受けたような差別は「真っ黒」なわけですが、多くの事柄は二者択一で決められるものではありません。

しかし最近のSNSの言い合いは、いわば「トロッコ問題、5人殺すべきか1人殺すべきか」みたいな決められるわけもない話を延々としてるわけです。

最後には罵倒・中傷・罵り合いになって建設的な話が進まないまま終わります。

今起こっていることはその罵倒すら面倒になってきたので、自分サイドの界隈でだけ主張を行い、その中では拡散され賛同されるが相手方には何も伝わらない状況です。

対立したまんまです。

 

 

私は比較的リベラルっぽい考えの世の中がいいなと思っていますが(明確な定義は知らない)、こんな状態で「より良い未来」くるかね?

 

 

話をタイトルに戻します。(前置きが長い)

「チルから暴力へ」というのは2019年ベストアルバムなどを音楽好きの方々がまとめている中でクラスタから出てきてプチバズったワードと認識しています。

熾烈化する社会情勢において「もうチルってる場合じゃない」雰囲気が生まれ始めている。

戦わなければならないという空気が生まれてきているというところです。

 

 

大意はわかりますし、その「暴力」という言葉には色んなニュアンスが含まれているんでしょう。

しかし音楽に時代の流れへの対応を期待するのであれば尚のこと「暴力」という言葉を使うの、露悪的すぎませんか?(趣味悪くね?って意味です)

「国家から国民への暴力」「差別という暴力」など許しがたい行為が行われているこの世の中で、新たな音楽への期待感に「暴力」という言葉を使うことそのものがざっくりした「ラベル」にも感じてしまいます。

 

 

そしてその文脈で前回感想を書いたGEZANのアルバムも語られることが多いようです。

https://karstereo.hatenablog.com/entry/2020/02/01/000926

 

 

でもそれはまじで違うんじゃないでしょうか。

彼らの音楽は暴力を肯定するわけではない。

もちろんこのアルバムには怒りや苛立ちがあります。

だけどそのアウトプットは暴力ではない。

「主張」です。

「赤曜日」という曲で「暴動を要求する ガラスを叩き割れ」というリリックが明確にあることは事実。

しかしこれは「我々は今水槽の中に入れられている」という直前のリリックに対してのものです。

マヒトゥ・ザ・ピーポー氏のインタビューでもこのリリックに関して煽動は否定されています。

 

「うん。そうですね。数と数をぶつかりあわせて戦わせるのは自分のやり方じゃない。いまの世の中、誰も観察者や傍観者じゃなくて、全員が当事者なんだっていう意識は必要で。そのうえで、ほんとに個人個人がいい感じに踊っていることができれば、違う次元で名前がなくなっていく」

https://mikiki.tokyo.jp/articles/-/24241

 

 

私はさっきから暴力は良くない、レッテル貼りは良くないと言っていますが、何も黙って我慢するつもりはありません。

差別には怒りを、不正には苛立ちをぶつけるべきだし世の中に対して訴えるべきです。

しかしそれを「ネトウヨ」や「男性」や「女性」や「特定の人種」にぶつけるのではなく、その発言なら発言をした「個人」にぶつけることが大切だと思うんです。

続けることは地道だし面倒だし時間がかかる。だけどそれ無しでぶつかり合うことで現在良い流れが来ているとはあまり思えないんです。

 

 

今我々は丁寧な議論が必要な話題ばっかり取り扱う時代に生きています。

それを飛躍した理論でねじ伏せて「俺最強」したい人が多すぎるのでイヤになりますが、惑わされてはいけない。

シロクロつけようとした方がラクなのはわかってます。

でもそれは「暴力」を生むし、明確にそこには反対を表明したい。肯定的な意味でこの言葉は使いたくない。

面倒でも細かに主張し理解しようとする。もしくは理解してもらおうとする。

『主張と理解』

これが新たな時代のテーマになることを祈ります。

 

https://open.spotify.com/track/6FbHEaz0Qexek5y1uSxMB5?si=f19wBkHeTICsavVo84W4hA